祖先の功績に酔いしれる者に未来はない
破格の人という方々がいる。
要は傑物、偉人と列される人達である。
私もたくさんの先人から学びを受ける。
古今東西、これはと思う人を倣う事、学びだ。
智慧は伝承である。実践は困難を伴う。
かつての賢人の行いを模倣するのみでは
現代を、未来を生き抜く事は凡そ不可能だ。
人は考えながら歩く。進歩とはよく言った物だ。
先頃、「出自は重要である」等と諫言を受けた。
己の生まれ育ちに酔いしれ一歩を踏み出さぬ
祖先に不忠の人間から貴殿の不浄は何事か等と
訳のわからない批判を受けた次第であります。
平和な時代であれば博愛を礎に名君となれたの
かも知れない。しかし世は乱世、群雄割拠。
後の世に至るまで、彼は誹謗中傷を受ける。
「扶不起的阿斗」(助けようのない阿斗)とまで
中国の愚者を示す故事にまで晒される。
私はここに出自の悲しみを知るのみだ。
自らの祖先に拘泥し、生き方を狭める人が居る。
卑しかろうが、誉高かろうが今を生きるは自身。
自分自身の生き方の前に出自の話をする事ほど
哀れな事を私は知らない。
新興は世にあまた有り。
批判を受けても力強く進歩をして行く。
中興は多難が多い物だ。
血は継がれるかも知らんが志は継がれないからだ。
私の死んだ兄は済済黌卒、創価学会員。
私の死んだ父は朝鮮生まれの国鉄労働組合幹部。
薩軍について見事に絶えた。母方は神官の家柄。
過去はどうでも良い。勝手バラバラに生き
死んでいく私の血筋の気風を大変気に入っている。
残滓に生きない矜持。
出自に拘泥する差別主義者には判らんだろう。