風呂水の哲学が分からねば政治は出来ない。
「風呂に入り、熱いお湯を自分の方に寄せようとかき集めると、自分の脇をすり抜けて向こうへ行ってしまう。逆にお湯を前へ押し出すようにすれば、壁にぶつかってこちらに返ってくる」
私が偉い、私がやったでは名声や徳は逃げる。
他の人がやった、皆さんがやった。
私は口で後押しをしたのみ、とするが政治。
まるで地域の名士を気取り、たまさかの権力と
町民の税を自らの利権の為にのみ用いる。
あるいはパフォーマンスに終始して物事を
何一つ進められない人達にこの哲学を薦める。
阿川弘之氏の小説「米内光政」の中にも
この「風呂水の哲学」が出てくる。
素晴らしい功績を残す政治家は弁えている。
田中角栄を持て囃す向きが昨今あるが
是非米内光政の生き様にも触れて欲しい。
明晰かつ難局に立ち向かう膂力を学べる。
政治とは究極のアナログだ。弁士たるものは。
実際に難事にあたる人々を助ける為に居る。